福山祭委員会が大切にしていること
福山祭委員会では誰もが安心して楽しめる祭をめざし、7つの項目を柱建てに取組んでいます。
①国籍・性別・年齢を問わず誰もが楽しめる祭りをめざしています。
②ごみゼロ推進運動など環境に配慮しています。
③戦後復興を支えたばらの取組みです。
④ふくやまの文化を感じてもらい親しんでもらうための工夫をしています。
⑤笑顔をキーワードに取り組んでいます。
⑥福山の象徴ローズマインドを伝え育んでいる祭りです。
⑦子どもたちがのびのびと参加できます。
②ごみゼロ推進運動など環境に配慮しています。
③戦後復興を支えたばらの取組みです。
④ふくやまの文化を感じてもらい親しんでもらうための工夫をしています。
⑤笑顔をキーワードに取り組んでいます。
⑥福山の象徴ローズマインドを伝え育んでいる祭りです。
⑦子どもたちがのびのびと参加できます。
福山ばら祭 50年の歩みを振り返る
100万本のばらのまち福山を代表するイベントとなった福山ばら祭も50回目を迎えました。これまでの50年の歩みを振り返ります。
ばらのまち福山の始まり
戦後復興の象徴「ばら」福山の人々の心を癒やしました。
1945年8月8日の空襲によって市街地の約8割が焼失し、多くの尊い命が失われました。戦後の混迷を抜け出せない中、「戦災で荒廃した街に潤いを与え、人々の心に安らぎを取り戻そう」と市民と行政が協働し、南公園(現在のばら公園)にばらの苗千本を植えました。ここから「ばらのまち福山」の歴史が始まりました。ではなぜ「ばら」の花だったのでしょうか。
中村金二さんの孫にあたる中村孝洋さんにお話をうかがいました。2015年に東京に移住された孝洋さんは、1990年、91年と福山祭委員会企画実行委員長を歴任されました。
金二は1949年、福山市から土地区画整理委員会委員長を委嘱され戦災復興に尽力し、墓地や公園の区画整理にも携わりました。金二の元には「花が咲き誇る福山を一日も早く…」という人々の声が届いていたそうです。そのさなか1949年横浜で開かれた日本貿易博覧会で、金ニは初めて西洋のバラを見て感動し、1950年、菊、ダリアが植えてある一角に30本を植えました。金二は1954年に急死しますが、その後金二の長女、澄子が10年掛かりで洋風バラ花壇を完成させ「中村バラ園」と呼ばれるようになりました。中村バラ園は、市民の皆さんはもちろん、福山に来られた国内外のお客様をもてなす迎賓館的役割を果たしていました。
残念ながら、今はそのバラ園を見ることはできませんが、金二さんが自宅の庭に植えた30本のばらが、ばらのまち福山の始まりに大きく関わっていたようです。
1956年には福山のばら愛好家47名により「福山ばら会」が結成されます。
ばら祭の誕生
はじまりは愛好家による展示会。
「戦災で荒廃した街に潤いを与え、人々の心に安らぎを取り戻そう」と、ばら公園にばらの苗千本を植えました。住民が熱心に世話を続けたばらは、やがて真っ赤な花を咲かせました。
「ばらのまち福山」の基礎を築き、大きな役割を担ってきた福山ばら会会長の石井稔さんにお話を伺いました。
1968年には、福山市・日独協会共催で開催され、これを機に「バラ展」を「バラ祭」と改め、「第1回バラ祭」が開催されました。この当時のバラ祭では、天満屋催場でのばらの展示のほか、ばら公園での茶席、琴の演奏会などを行っていました。
1971年になり、祭の企画運営を担う「福山祭委員会」が設立され、市民と行政がともに関わる祭運営が始まりました。音楽祭や世界の料理が味わえる露店など、大人も子どもも楽しめるイベントも増えていきます。
福山祭委員会初代企画実行委員長の鍋島孝宏さんにお話を伺いました。
[鍋島] その頃は今よりも公園や街にばらが少なく、祭の時期に咲くのかと大変心配しました。当時のばら祭には、商店街の活性化など、街を盛り上げてほしいという大きな期待がありました。しかしあの頃のことを思うと、こんなにたくさんの人が集まる大きなイベントになるとは思わなかった。よく続いたと思います(笑)。
拡大するばら祭
福山のローズマインドを被災地へ届けたい。
福山祭委員会が主催するばら祭は、アマチュアバンドの演奏会やチビッ子みこし、ミス・ばらの発表会、とんどパレードなど、次第ににぎやかさを増していきます。1970年代20万人だった人出は、1980年代に40万人を突破。さらに1992年、緑町公園をメイン会場とすると、その規模は一気に大きくなります。
1992年の企画実行委員長、菅田博文さんに当時の様子を伺いました。
[菅田] 当時、ばら祭の「核」となるものが必要だと考えていました。核となる場所、核となるストーリー。メイン会場をそれまでのばら公園から緑町公園に移すことで、駅や商店街から続く人の流れも広域になり、パレードも広がりました。特設ステージでのローズコンサートや駅前モニュメントの設置、ばらコンテストの表彰式など、「100万本のばらのまち」へつながる祭のストーリーもアピールしていきました。
新たなスタートを切ったばら祭は、年々その規模を広げていきます。そんな中、1995年1月17日阪神淡路大震災が発生。その年のばら祭では、支援コンサート「ロサファンタジー福山'95」が開催されました。当時の企画実行委員長、島田斉さんにお話を伺いました。
[島田] ロサファンタジーは、福山の復興のなかで根付いたローズマインドのもと、都市復興の緑化活動を支援するイベントです。趣旨に賛同したアーティストたちがボランティアでライブに参加、著名人からのVTRメッセージもたくさん届きました。チャリティー募金には、多くの善意が寄せられました。フィナーレでは、福山市周辺の大学生ボランティア370名と会場の皆さんによるケミカルライトを使った巨大な光の地上絵、ラインアートを作成。夜の緑町公園の敷地いっぱいに、ばらの花と「ひょうごガンバレ」の文字が浮かび上がった。小雨の中の一発勝負、これは見事でした。また、神戸の街に福山のばらが咲くことを願って、ケミカルライトの売上でばら100鉢を購入。神戸の仮設住宅へ届けました。
「思いやり 優しさ 助け合いの心」を表すローズマインドを改めて強く感じる祭となり、その思いは今後の祭の「核」となっていきます。
得ダネ!びんご耳より情報コーナーアーカイブ
レディオBINGO「GO!GO!Bびんご~」得ダネ!びんご耳より情報コーナーにて放送された「福山ばら祭 50年の歩みを振り返る」がお聴きいただけます。